佐野市:奥州塚古墳

過日,奥州塚古墳(栃木県佐野市植野町)を見学した。
奥州塚古墳は,直径約15mの円墳とされている。
奥州塚に関しては,延暦7年(788年)に征東大将軍として奥州平定に向かったけれども大敗した紀古佐美が戦死者を葬った塚との伝承があるらしい。現在の栃木県周辺は,朝廷の勢力と奥州の勢力とが衝突する場所だったということになりそうだ。時代は源義家の時代に下るものの,下野市の薬師寺八幡宮にも類似の伝承があるようだ。
ところで,奥州塚古墳の現況は,周囲を住宅街に取り囲まれた円形の島のような感じになってしまっている。周辺には他にも古墳があったらしいのだが,現存するのは奥州塚1基だけ。そのため,どの角度から撮影しようと思っても必ず周辺の家屋の一部が写り込んでしまうことになり,撮影に苦労した。

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一般に,敗者の歴史は記録されることがほとんどないので不明の部分が多いけれども,あくまでも素人の想像としては,朝廷の命により順次北上しながら屯田・支配するということが長期間にわたって累積した結果,北関東の諸勢力と奥州の諸勢力との間には(姻戚関係を含め)現在考えられて居るよりももっと複雑で密な相互関係が存在したのではないかと思われる。そのため,どちらの勢力も一枚板ではなく,情勢によって流動化することがしばしばあったのではなかろうか。そうでなければ説明できないことが多すぎる。南北朝の時代の新田氏と足利氏との関係を考えてみても,類似の微妙な政治力学が作用したということはあり得ることだと考える。どのような立場にたって考えるにしても,現代のような国家統一後の状況を全て忘れ,現実には多数の小国家が併存しているのと同様の状況を想定して推測してみることが大事だと思う。形式的または名目的にはどの勢力も朝廷の威信を最大限に尊重しているとしても,そのようなことは発生し得る。そのように考えれば,明治維新における「錦の御旗」の存在意義が現代という時代において考えるよりもはるかに大きなものだったとの理解を得ることも可能となるだろう。戦国時代の有力諸将が「征夷大将軍」に任ぜられることを求めた気持ちも同様のものだったのかもしれない。


 古墳の森:奥州塚古墳
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