土浦市永国:大聖寺
過日,土浦大師不動尊として知られる真言宗豊山派・羽黒山今泉院大聖寺(茨城県土浦市永国)を参拝した。本尊は,大聖不動明王。
大聖寺は,長徳元年(995年)創建の寺院。由緒書によれば,小田氏が優勢の時機には田中荘平塚(つくば市西平塚)に移されたが,小田氏の滅亡と共に現在の地に戻ったとのこと。
本殿(大聖殿)や護摩堂等の堂宇はとても立派なもので,本尊の不動明王,山門,四脚門等が土浦市の文化財として指定されている。
境内には四国八十八ヶ所ミニ霊場巡りの石仏があり,また,大きな墳丘様の場所に大師堂がある。この大師堂のある場所は,地形的には古墳があっても少しもおかしくない場所なのだが,現時点では古墳または塚の所在地とはされていない。大聖寺の墓地区画北側斜面に位置する永国台では,団地造成地に多数の古墳遺構が発見されており,また,かつて,十三塚と呼ばれる塚群が近隣にあったので,大聖寺境内周辺一帯がかなり古い時代から墓域であったことは間違いないと思われる。なお,大聖寺の北西の方には宍塚古墳群がある。
本堂前には江戸城御殿医三嶋惣検校安一に関する説明板がある。
大聖寺と深い関係のあった江戸城御殿医三嶋惣検校安一の職業であった江戸城御殿医とは,徳川将軍家のための侍医(漢方医)であり,その職務上の地位から,幕末近くまで日本国における医学全体を支配していたと考えられている。
ただし,幕末の頃には,徳川幕府による欧化政策もあって,西欧医学(蘭方)が既に主流となっていたと考えられる。明治政府は,日本国の医学として,西欧医学を基本とすることにし,現在に至っている。とはいえ,有名製薬会社等により,現在でも漢方薬(生薬成分配合薬品)が製造販売され続けている。
ただし,生薬原料である本草に関する学問の状況は必ずしも十分なものであるとは言えない。訓詁学的な文献学を一応措くとして,現時点においては,現在主流の遺伝子解析を基礎とする植物分類学研究や考古学を基礎とする研究との整合性確保がうまくいっていないと評価せざるを得ない。法律家の中で本草学に精通している者は僅少なので,法学の分野との整合性も確保されていないと言わざるを得ない。
土浦大師不動尊大聖寺
http://www.daishouji.jp/
北関東三十六不動尊霊場:31番札所:大聖寺(通称:土浦大師不動尊)
https://kita36fudo.com/ibaraki/ibaraki31.html
大聖寺は,長徳元年(995年)創建の寺院。由緒書によれば,小田氏が優勢の時機には田中荘平塚(つくば市西平塚)に移されたが,小田氏の滅亡と共に現在の地に戻ったとのこと。
本殿(大聖殿)や護摩堂等の堂宇はとても立派なもので,本尊の不動明王,山門,四脚門等が土浦市の文化財として指定されている。
境内には四国八十八ヶ所ミニ霊場巡りの石仏があり,また,大きな墳丘様の場所に大師堂がある。この大師堂のある場所は,地形的には古墳があっても少しもおかしくない場所なのだが,現時点では古墳または塚の所在地とはされていない。大聖寺の墓地区画北側斜面に位置する永国台では,団地造成地に多数の古墳遺構が発見されており,また,かつて,十三塚と呼ばれる塚群が近隣にあったので,大聖寺境内周辺一帯がかなり古い時代から墓域であったことは間違いないと思われる。なお,大聖寺の北西の方には宍塚古墳群がある。
本堂前には江戸城御殿医三嶋惣検校安一に関する説明板がある。
大聖寺と深い関係のあった江戸城御殿医三嶋惣検校安一の職業であった江戸城御殿医とは,徳川将軍家のための侍医(漢方医)であり,その職務上の地位から,幕末近くまで日本国における医学全体を支配していたと考えられている。
ただし,幕末の頃には,徳川幕府による欧化政策もあって,西欧医学(蘭方)が既に主流となっていたと考えられる。明治政府は,日本国の医学として,西欧医学を基本とすることにし,現在に至っている。とはいえ,有名製薬会社等により,現在でも漢方薬(生薬成分配合薬品)が製造販売され続けている。
ただし,生薬原料である本草に関する学問の状況は必ずしも十分なものであるとは言えない。訓詁学的な文献学を一応措くとして,現時点においては,現在主流の遺伝子解析を基礎とする植物分類学研究や考古学を基礎とする研究との整合性確保がうまくいっていないと評価せざるを得ない。法律家の中で本草学に精通している者は僅少なので,法学の分野との整合性も確保されていないと言わざるを得ない。
土浦大師不動尊大聖寺
http://www.daishouji.jp/
北関東三十六不動尊霊場:31番札所:大聖寺(通称:土浦大師不動尊)
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