稲敷市神宮寺:神宮寺城跡

過日,神宮寺城跡(茨城県稲敷市神宮寺)を見学した。
南北朝の時代,北畠親房が伊豆沖で暴風雨に遭って兵が四散し,東条氏に迎えられて拠った城なのだが,佐竹氏や大掾氏等の連合軍により攻められ,約20日ばかりで落城してしまった城ということになっている。多勢に無勢ということなのだろうと思うのだが,佐竹氏や大掾氏の立場にたってものごとを考えてみると,もし何らの手も打たずに放置すれば,東条氏が優勢になってしまい,常陸國における軍事的・政治的な勢力バランスが大きく変動してしまうことが明らかだし,佐竹氏と足利氏との関係もあるので,とにかく先手必勝で攻めまくるしか選択肢はなかったと考えられれる。
現在,神宮寺城跡とされる場所には,空堀,土塁等によって区画された1郭,2郭及び3郭が残されているけれども,元はもっと大きな城だったと考える見解が多い。下記の余湖氏のサイトでは,南北朝の争乱の後に二次利用され,拡張された可能性が示唆されている。私もそうなのではなかろうかと思っている。

その後,北畠親房は,阿波崎城,小田城関城大寶城等に拠ったけれども,更に逃れて吉野へ帰還した。

その間,常陸國では,とても多くの血が流され,非常に古くからの家系の幾つかが途絶えた。古くからの寺院や神社の中で戦乱により焼失してしまったものも少なくなく,それに伴って,貴重な古文書のかなり多くが失われてしまった。
南朝と北朝の争いがなければこのような結果にはなからなかったのかもしれないけれども,結局,鎌倉幕府による統治のための基本的な仕組みが劣化し,政治的・社会的に機能しなくなっていたから南北朝の争乱が起きたとも考えられ,もしそうであるとすれば,もし南北朝の争乱がなかったとしても,やはり何らかのかたちで内戦のような大規模戦闘が発生し,日本国の政治構造に大きな変更が生ずることになったのだろうと思う。古代中国風に表現すれば,天命が尽きたということになる。いわゆる唯物史観は成立しない。

ただし,どのような史観に立脚するにしても,結局,日本国全体を動かすことになったのは東国の武士団だったということだけは否定しようがない。私見としては,主たる生産拠点・軍事拠点は,古代の律令制時代からもともと東国にあったのであり,畿内はそれを単に消費または浪費するだけの地域に過ぎなかったのだと考えている。現行の歴史教科書の大部分は,根本的なところで見直しを要する。

他方,このような動乱の時機には多くの傑物が出現し,活躍する。戦乱のない平穏な時代には凡庸でことなかれ主義の平均的な者でなければ生き残りにくい。出る杭は打たれる。つまり,この種の問題に関しては,何が正で何が邪なのかは,状況と立場によって相対的なものとなることがしばしばある。このような点に関しては,コリン・ウイルソンが『世界残酷物語』等の著書の中で既に述べているとおりであり,私は全く同感だ。

なお,神宮寺地内には,南北朝時代の関連遺跡として,十三塚もある。

IMG_3238.JPG
神宮寺城跡入口付近


IMG_3198.JPG
説明板


IMG_3234.JPG
1郭入口付近


IMG_3232.JPG
1郭北東隅の堀跡


IMG_3202.JPG
1郭南西側の堀跡


IMG_3204.JPG
1郭北東隅の土塁


IMG_3206.JPG
1郭北東側の土塁


IMG_3209.JPG
1郭北西側部分


IMG_3214.JPG
1郭南東隅付近


IMG_3215.JPG
1郭東側土塁


IMG_3224.JPG
1郭南道角の土塁(櫓跡?)


IMG_3218.JPG
1郭と2郭の間の堀跡


IMG_3222.JPG
2郭と3郭の間の堀跡


IMG_3219.JPG
2郭付近


IMG_3237.JPG
神宮寺城跡入口付近から見える景色



 茨城県教育委員会:神宮寺城阯
 https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-12/12-12.html

 余湖:神宮寺城(桜川村神宮寺)
 http://otakeya.in.coocan.jp/info02/jinguuji.htm

この記事へのコメント