行川市矢幡:前塚古墳

過日,前塚古墳(茨城県行方市矢幡)を見学した。
前塚古墳は,瓢箪塚古墳の南東約200mのところにある。現況は,1辺10m程度の方墳のような形状をしている。佐々木憲一・田中裕編『続 常陸の古墳群』(六一書房)の200頁では,8×12m・高さ2mの規模の古墳としており,「方墳か」との注記がある。実際に見学した結果の印象としては,元は円墳であったかもしれないと思う。
前塚古墳の墳丘上には神社が祀られている。氏神のようなものかもしれないと思ったけれども,敬意を表する趣旨で参拝した上で,周辺を拝見した。
一般に,矢幡地区に所在する古墳は古墳時代の中期以降に造営されたものだと考えられている。南の方の大生西部古墳群(大生地区)~大生東部古墳群田ノ森古墳群(釜谷地区)の所在地付近から屯田を始め,次第に北上し,浅間塚古墳群(大賀地区)の所在地付近~矢幡地区付近に至ったということなのだろう。矢幡地区及びその周辺地区に小型でも前方後円墳が結構たくさんあるのは,そのためと思われる。古代においては,主家よりも大規模な墳丘墓を造営することができなかったと思われるし,また,郡衙等の官衙の整備に伴って朝廷または国司から派遣された官吏による統治が強まると,更に目立つことができなくなる。それでもなお,古い由緒ある家系の子孫だという強いプライドは鮮明に残るので,規模が小さくても形だけ前方後円墳のような墳丘墓が造営されることがあったのだろうと想像する。
そのような北上が起きた要因としては,耕地面積によって生存可能な人口が決定的に確定されてしまう古代において,ある屯田地の開拓が進み,人口が増加すると,新たな開拓地を求める必要性が出てくるという経済的必然性がある。それと同時に,朝廷の命により,更に北方への支配を拡大し,統治を安定させるためには,そのための兵糧や兵士等の人員の供給を確保するため,森林や原野を開拓して新たな耕地を増加させる必要があったという政治的要因もあったと考えられる。
このような兵站確保の目的で酷使されるという北関東の地理的条件は,坂上田村麻呂の時代頃まで現実的なものとして続き,源義家及び源義光の時代でも基本的には同じだったのだろうと考えられる。
一般に,関東北部~東北地方ではかなり遅い時代まで古墳(墳丘墓)の造営が続くのだが,このような意味での屯田の北上に伴う転封や中国大陸からの新たな移民の居住先確保を兼ねた屯田のようなものがあったと考えると,墳丘墓を造営する文化をもつ人々の集団が次第に北の方に移動したものとして理解することも可能だろうと思われる。人々の移動や戦乱,殺戮と混血が全く存在せず,文化だけが伝播したというような仮説は成立の余地がない。
なお,古代における鹿島・行方の状況に関しては,潮来町史編さん委員会編『潮来町史』(平成8年)の81~188頁(特に181~188頁)が参考になる。

IMG_5233.JPG
北の方から見た前塚古墳所在地付近


IMG_5221.JPG
鳥居


IMG_5223.JPG
墳頂の神社


IMG_5224.JPG
東の方から見た様子


IMG_5219.JPG
北西の方から見た様子

この記事へのコメント