散策中に観た鳥

早いところでは既に田起こしが始まっている。田起こしすると,土の中で眠っている昆虫が地表に顕れるのだろう。農業用トラクターが田起こしした後には小鳥がやってくる。

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セグロセイレイ


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ツグミ


利根川の土手付近では,朝にマガモの群れが浮かんでいるのを観ることができた。空にはカモの仲間と思われる鳥が群れとなって飛んでいる。
インフルエンザウイルスは,渡りをする野鳥によって運搬されるのだという。川面に浮かぶ野鳥を全て抹殺してしまうべきなのだろうか。仮にそのような政策を採用した場合,地球全体の生態系の一部に大きな欠落が生ずることになるので,最終的には人類の死滅の引き金となり得る。だから,リスクが高くても,そのようなものだと思って,現実に存在する自然環境とその諸要素とつきあいながら生きていくしかない。


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新型コロナの関係で緊急事態宣言が発令されたので,(職務上の義務として移動しなければならない場合を除き)私の住む茨城県から利根川を越えて千葉県に入ることができない。千葉県だけではなく,埼玉県と栃木県でも緊急事態宣言が出ているし,福島県方面は雪や凍結等のリスクがあるので,結局,茨城県から出ることができない。
物理的に移動できなくても,通常の仕事であれば,全てオンラインで遂行することができるので特に問題はない。しかし,寺社の参拝や遺跡の見学のために県境を超える移動ができないことはかなり辛い。

今回の緊急事態宣言発令前に,(全て日帰りで)各地の神社・寺院・古墳・その他の遺跡等を探訪しておいてよかったと思っている。人気のないところであれば,新型コロナ感染のリスクもない。

一般に,自主規制は,各人の良識に任せたリスク管理を当然の前提としている。強制的な規制が入っても,食糧・燃料・生活必需品の買い出しなどの際には適正なリスク管理が必要となる。しかし,リスク管理のできない人やリスク管理をする気のない人が非常に多数存在することは事実だし,仮にそれらの人々を懲役刑に処すことができるような法改正をしたとしても,裁判所の処理能力を考えると,必要なときに必要な処罰をすることができず,在宅のままで何万人もの人々を野放しにするというほかに方法はないことになるだろう。ちなみに,裁判所関係の予算額は,総国家予算の中で最も低レベルの微々たるものに過ぎない。法務省の矯正関係の予算も同じだ。
盛り場は一応措くとしても,一般に,人は,(聖人や仙人のような特別の例外的な人を除き)誰かと接することにより精神的安定を得ることのできる動物の一種であるという側面があることを否定できない。だから,ごく普通の会話などの機会に感染するリスクをゼロにすることは最初から無理なことだ。

病院にしても,いろいろと批判はあるけれども,新型コロナが流行する前には,むしろ,医師が多すぎるとか,病床が多すぎるとか,マスコミは医療分野を縮小する方向での報道ばかりしていたので,今更急に「増やせ」といってもできない相談というものだ。これは,政策上の失敗ではない。なるべくしてなったことであり,それを避けることなど誰にもできなかったことだろうと思う。

仮に,現時点で医師・医療従事者・病床等を大幅に増加させたとして,新型コロナの問題が解消した後には,やはり「過剰」の問題が生ずるから,またまたマスコミはそのような側面だけとらえて騒ぐことになるのだろうと疑いたくなる。要するに,そのようなマスコミ等には政府や成功者を批判して溜飲を下げるくらいの能力しかないのだろうと思う。換言すると,大局観がない。そもそも十分な分量の古典の素養と事実を実見するという豊富な経験がないために大局観をもつ能力がないのに,「ちょっと賢い」程度の者がそのような仕事に就くから変なことになる。このことは,何もマスコミに限ったことではない。大器は晩成するのであり,速成できない。

医療現場は既に飽和しているので,無力になっていると判断すべきだ。新型コロナに関しては,なるようにしかならないのだろうと思う。

特定のタイプのウイルスに対して効果のあるワクチンが別のタイプのウイルスに対しては有効ではないかもしれないことは,インフルエンザのワクチンでも新型コロナのワクチンでも同じだ。これからも,ノロウイルス等の他のウイルスを含め,新たなタイプのウイルスがどんどん出てくることだろう。それを避ける方法はない。ウイルスも生存がかかっているので,宿主が対処方法をみつけると,変異することにより生存できるようにするからだ。これは,意志によるものではなく,単純に適者生存(自然淘汰)によるものと考えられる。

人間が自然界を管理し支配することなど絶対にできない。人間は,自然界の変化に合わせて自分自身を変えながら,どうにか生き延びる方法を考え続けるしかないのだと思う。これもまた自然淘汰の一種として理解し,「諦念」というものを知ることが大事だと思う。
自然淘汰の考え方に反感をもつ人も多数存在することだろう。しかし,人間は,自然界を淘汰できないので,自然界の鉄則である自然淘汰の法則を淘汰することもできない。宗教家の中にはそれを「神の意志」ととらえる人もあるかもしれない(例:『旧約聖書』のノアの洪水)。しかし,「異なる信教の人や無信仰の人も平等に扱う」という現在の基本的人権思想を尊重するとすれば,それを「神の意志」だけで説明することは許されない。

一般に,人間及び人間が利用可能な道具・手段の極めて限られた能力では自然界の変化を予測できない以上,どうすれば良いのかを予め設計しておくことはできない。
予測可能な事象を前提とするものである限り,AIも無力なのだと思う。予測不能という解が予めわかっている事象に関しては,AIマシンは何も計算できないことになる。
地球のコアの部分の物理現象のリアルタイムの細部や成層圏の物理現象のリアルタイムの細部を含め,地球の全ての物理現象をデータ化してデータベースに収録することは不可能なことなので,自然現象を正確にモデル化することはできないし,正確性のないモデルに基づく統計計算のようなものは,ほぼ詐欺に近い。
実際,ごく身近な動植物だけではなく,人間が構築した寺院や神社等の文化財に関しても,埋蔵文化財に関しても,その圧倒的多数に関して,知識がほとんど欠如している。誰も記録しないから,知識としては残されないのだ。つまり,己惚れの強い人々または無知な人々は,「世界の知識は既に十分にある」と思うかもしれないけれども,真実は,「人間は何も知らない」のだ。
一般に,AI技術者が理解している「知識」とは,本当はその程度のものであり,質的にも分量的にも極めて乏しく・歪んだものなので,既存の「知識」なるものをデータベースしたところで,人工知能を実現することなど絶対にできない。

水面に浮かぶカモの群れを眺めながら,このようなことを考えた。

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