茅野市:諏訪大社上社前宮(その1)

過日,信濃國一之宮諏訪大社の上社前宮(長野県茅野市宮川)を参拝した。
祭神は,八坂刀賣命。
「刀賣」は「とめ」と読むが,元は「刃賣」であり,「刀自(刃自・刃目)」と同様,「姫(ひめ)」を意味するものだったと考えられる。
諏訪大社には上社の本宮と前宮,下社の秋宮と春宮がある。ちゃんと参拝したのは今回が初めて。全て参拝したいと思っている。
前宮の社殿奥は,八坂刀賣命の墓所とされている。かつては高塚があったのだろうと思う。現在,その場所には巨木が立っている。

諏訪大社の成立や國譲り神話との関係については諸説ある。古代のことだし,その後におけるこの地と朝廷との関係の中で変形された内容が史書等に記載されることになった可能性もあり,なかなか難しい。そうではあるけれども,前宮が(神事を含め)諏訪大社の最も古い時代における歴史の一部を示す存在だという点に関しては,あまり異論がないように思う。
諏訪大社が四社に分かれているのは,古代において,諏訪氏の祖先が発展する中で,分家のようなかたちでそのようになっていったのではないかと思う。
『神道集』にある甲賀三郎の説話は,非常に興味深いものなのだが,比較的新しい時代に形成されたものとするのが一般的な見解。この地における古代の歴史に関しては,『先代旧事本紀』の記述が非常に参考になる。

それはさておき,前宮鳥居前の駐車場にクルマを停め,参道を登りながら,主要な建築物等を拝見し,参拝した。
当然のことながら,参拝客が多い。「他の人が写り込まない写真を撮るのは無理かもしれない」と思いつつ参拝したのだが,運良くそのタイミングに恵まれたので,何枚か写真を撮った。

前宮社殿の四隅には御柱と呼ばれる大きな柱が立てられている。古代においても同様の柱が立てられていたのだろうと推測される。そして,その柱には,白い旛または幡,すなわち,白和幣(白にぎて)が掲げられていたのだろうと思う。あるいは,巨大なヌサ(幣または帛・現在の大玉串に相当する祭祀具)のようなものが4本立てられていたのかもしれない。

甲斐銚子塚古墳の後円部裾にも巨大な柱穴があるが,それも同様のものであったかもしれない。井出二子山古墳の後円部にある4つの島状の部分に関しても,もしかすると同様の柱を立てるための場所だったのかもしれないとも考えられる。
現在の相撲において用いられる円形の土俵において,その四方外側に柱を立てるのは,単に屋根を支える柱が必要だという機械的な理由によるものではなく,類似のルーツから派生したものかもしれない。実際,古墳を基壇部とする社殿をもつ古い神社において,相撲を奉納する例が決して少なくない。芳賀町の行事神社を訪問した時にもそのように感じた。
長い年月を経て,「なぜそうするのか?」が忘れ去られてしまっているのだろう。大相撲の有力力士が国際化している現状では,ますますもって相撲が祭祀や神事とは完全に無関係な単なるスポーツ(格闘技)の一種となりつつあるので,現代の若い世代にとってはどうでも良いことかもしれない。しかし,例えば,保渡田八幡塚古墳のような有名古墳の埴輪群像の中にも秦始皇帝の兵馬俑の中にも,力士と考えるしかないような大きな人物像(俑)が存在しているのだ。

『古事記』や『古語拾遺』の記述から推測すると,「天の岩戸」を古墳の石室扉石のような一族の祖の墓所の入口を意味するものだったと仮定した場合,本来,和幣やヌサは,石室前に立ち並ぶ野外の木に掲げられて奉納されるものであり,神殿の中に格納されるものではなかったと考えられる。
『日本書紀』にある景行天皇の業績に関する記述を読むと,降伏・恭順の意を示すために「白幡(素幡)」を掲げるという情景を示す部分がある。これは,景行天皇を倭国(日本国)の長者(大王)として認める意思を具体的に表現するために採られた行動形式の記述であると同時に,後代のために,恭順の意思のある者が示すべき行動様式を定型化・様式化・明確化して記録に残すという趣旨が含まれていたのではないかと考えられる。現代における小型の玉串の奉納等は,そのような行動様式が更に変化し,本来の意味を知らない人々によっても形式的な儀礼の一種として行われるようになっているものだと理解することが可能と思われる。
これを地方の神社における祭祀にマッピングしてみると,当地における氏子総代のような人々が白旛や玉串などを奉納するのは,当該神社(過去においては,その神社に祀られている神を祖とする一族の当代における長者・頭領)に対する恭順の意思を示すための様式化・定型化された行動を採っているのだと理解することが可能となる。

白和幣そのものの話題に戻すと,中国の本草学における名称と日本国における用例・呼称との間には相違と混乱があるが,おおざっぱに言えば,カジノキの仲間の樹皮は,「構」,「穀」,「楮」,「桷」,「鹿仔」等と呼ばれ,古代においては白和幣の原料として用いられた。カジノキに「梶」をあてるのは,後代の誤用とされている。『古語拾遺』には,麻を用いて青和幣をつくり,穀を用いて白和幣をつくったとある。
従って,諏訪大社の神紋の呼称も「梶」ではなく,「穀」または「桷(鹿仔)」と書かれるのが正しい。
カジノキの仲間は,日本の在来種ではなく,栽培種として中国から直接に伝来した植物種とそこから派生した改良種の子孫と思われる。ただし,推測としては,カジノキの仲間に関しては,古代の伝来種の子孫と推定できる個体は滅多になく,その大部分は,徳川吉宗の経済政策に基づき,清帝国の時代に中国から再輸入され,日本国内において改良された園芸品種の子孫ではないかと思われる。この点に関しては,残されているものが僅少だという問題はあるけれども,徳川吉宗の経済政策が実施される前の時代の様子を知ることのできるものとして,(写本を含め)日本国の中世~戦国時代にまとめられた本草関連の文献資料が参考になる。

かつて,前宮の脇を流れる清流の水を用いて樹皮がさらされ,繊維として加工され,そして,その繊維を用いて白布が織られたのだろうと想像しながら散策した。

なお,「梶」ではなく「桷(鹿仔)」が正しいということが前宮の十間廊における神事において鹿が用いられたことと関係があるかどうかについては,まだ検討が十分ではなく,よくわからない。

IMG_9649.JPG
鳥居


IMG_9647.JPG
鳥居脇の溝上社


IMG_9561.JPG
手水


IMG_9565.JPG
案内板


IMG_9563.JPG
鳥居


IMG_9566.JPG
北の方から見た十間廊


IMG_9573.JPG
西の方から見た十間廊


IMG_9567.JPG
十間廊の説明板


IMG_9570.JPG
改修工事中の内御霊殿


IMG_9575.JPG
交流センター前宮付近


IMG_9574.JPG
鎌倉遊歩道の説明板


IMG_9590.JPG
「水眼」の清流


IMG_9597.JPG
「水眼」の清流と水神社


IMG_9580.JPG
「水眼」の清流の説明板


IMG_9619.JPG
前宮一之御柱
(左奥は四の御柱)


IMG_9617.JPG
前宮二之御柱
(左奥は三之御柱)


IMG_9584.JPG
前宮拝殿


IMG_9585.JPG
前宮本殿


IMG_9591.JPG
本殿背後にある巨木


日本国の古くからの祭祀の中には,中国南部の少数民族の中に伝えられてきた祭祀と共通する要素をもつものが少なくない。ルーツは同じようなところにあり,約2000年の年月をかけて,それぞれの地域の風土に合うように分化したものかもしれない。
かつて,萩原秀三郎氏は,そのような中国の少数民族における伝統的な習俗や祭祀の写真を大量に撮影し,記録に残してくれた。中国共産党政権下の現在の中国においてそれらの少数民族の習俗や祭祀がどれだけ残されているのかは不明だ。それだけに,民俗学に限らず,関連諸分野の学術において,萩原秀三郎氏が残してくれた写真は,非常に貴重な記録資料だと考える。
それらの写真の中には,巨大な柱と関連するものも少なくない。
日本国の古墳の横穴墓にしても,中国南部や中国東北部に残されているドルメン様の墳墓(石室)やその二次利用物である祭祀施設等と類似するものがある。萩原秀三郎氏の写真の中には,それと関連するものも含まれている。

なお,現代の中国において編纂された資料としては,『中国各民族原始宗教 資料集成』(中国社会科学出版社)が非常に参考になる。



 信濃國一之宮諏訪大社
 http://suwataisha.or.jp/

 玄松子:諏訪大社 上社 前宮
 https://genbu.net/data/sinano/mae_title.htm

この記事へのコメント