上田市秋和:豊秋霧原埜神社と古墳

過日,豊秋霧原埜神社(長野県上田市秋和)を参拝した。祭神は神功皇后・応仁天皇・仁徳天皇。
元は八幡社と呼ばれていたようだ。
豊秋霧原埜神社の所在地は,武田軍と村上軍との間の葛尾城の戦における激戦地の1つとのこと。おそらく,当時,豊秋霧原埜神社の境内地とその周辺全体が葛尾城の一部を構成する館または砦だったのだろうと想像される。村上氏の興亡に関しては,田中豊茂『信濃中世武家伝-信濃武士の家紋と興亡-』(信濃毎日新聞社・2016年)の80~95頁が参考になる。
豊秋霧原埜神社の境内(南西側斜面)には大蔵京古墳と呼ばれる古墳がある。大蔵京古墳は,1辺32m~34mの方墳とされている。草が繁っているため墳丘近くにはアクセスせず,境内地から見える範囲内で見学した。

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南の方から見た豊秋霧原埜神社のある山


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鳥居前の階段


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鳥居


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拝殿前の階段と石灯籠


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石灯籠の説明板


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拝殿


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本殿


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境内社


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境内社


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大蔵京古墳の説明板


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北の方から見た大蔵京古墳


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北東の方から見た大蔵京古墳


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境内地から見える景色


秋和大蔵京古墳は,採取された土器破片の特徴などから,4~5世紀頃の古墳と推定されている。もしそうであるとすれば,中国では五胡十六国の時代に該当する。
倭国の朝廷の命により屯田するために東方~北方に侵攻した一族(軍事氏族)の中には,中国の戦乱を逃れて移住してきた集団がそのまま倭国の朝廷に服属することになり,一族の居住地を得るという目的もあって屯田に精を出したというような例もあったのではないかと想像される。
一般に,五胡十六国と呼ばれる国々を形成した軍事貴族の中には西域から侵攻してきた集団が多数含まれており,その配下にあった部隊クラスの一族も同様であったと想像される。現在までに発掘調査されているその時代の中国の遺跡からは,西域そのものと言えるような文物が多数発掘されている。
それゆえ,当時,諸国の興亡の中で倭国に移住した集団の中にも,当然のことながら,その構成員のほぼ全員が,古代のアレキサンドロスの時代に形成されたギリシア人王国や古代ペルシア系のバクトリア諸国を含め,西域またはそれ以西の地域の王族出身者やその子孫という集団が存在し得たと考えられ得る。
現在の日本人の遺伝子の中に様々な要素が混在していることが既に判明している。その原因の多くは,もしかするとこの時期に形成されたものかもしれないと思う。例えば,坂上田村麻呂の容姿を描写した記述などは,西域出身者またはその子孫のようにも読める。


ちなみに,五胡十六国の時代よりもはるかに昔のことなのだが,石峁遺跡の発掘調査結果が少しずつ明らかにされてきた。今後の発掘調査結果次第では,「中華」のアイデンティティに関する基本的な部分で根本的な発想の転換を迫られることになるだろう。
私見としては,ユーラシアの歴史は一体として見るべきもので,特に,メソポタミアだけが独立に突出した文明域だと考えるのは間違っていると思う。しかし,メソポタミアで発明された文化の多くが変形を重ねながら次第にユーラシア全体に伝播したということは否定しようがないのではないかと思う。
例えば,饕餮の表現は,それだけを見ていると独特のように見えるけれども,トポロジー的な発想の下では,西アジアの古代の文物の幾つかと共通する部分をもっていると感じることができる。



 上田市:上田寺社めぐり2
 https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/20031.pdf

 信州デジタルコモンズ:豊秋霧原埜神社
 https://www.mmdb.net/sdc/app/items/show/1684

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