上越市牧区:宮口古墳群(その5)

過日,宮口古墳群(新潟県上越市牧区宮口)を見学した。
宮口古墳群は,31基の円墳で構成される古墳群(群集墳)であり,史跡公園として整備されている。
史跡公園の中心部付近にある復元古墳を見学した後,資料館前の道路の西側水田縁にある8号墳~25号墳を見学した。
これらの古墳の墳丘は,史跡公園として整備された際に復元されたもののようだ。古墳の番号順に,概ね北の方から南の方に移動しながら見て回った。古墳の番号に関しては,村教育委員会「宮口古墳群Ⅱ(第3次発掘調査)-新潟県東頸城郡牧村宮口古墳群発掘調査報告書-」(1979年)の7頁にある配置図を基本とし,これと合致している限り,現地に立てられている標柱の番号に従うことにした。

宮口12号墳,宮口13号墳,宮口14号墳及び宮口15号墳は,史跡公園の駐車場の西側付近にまとまって所在している。

宮口12号墳は,墳丘がなく,巨石が露出する状態で存在していた古墳で,耕作の妨げになるという理由で石室を構成する巨石が大規模に破壊されれた状態のものだったようだ。「宮口古墳群Ⅱ(第3次発掘調査)-新潟県東頸城郡牧村宮口古墳群発掘調査報告書-」の36頁によれば,それが古墳の石室の一部だとは知らずに,土地所有者が石工を雇って巨石を割り出し,移動したとのこと。このあたり一帯は,史跡公園として整備される前は,概ね平坦な耕地として均された土地であり,所々に岩や礫が露頭しているような状況だったのだろうと想像した。
宮口13号墳,宮口14号墳及び宮口15号墳の詳細は不詳。
宮口12号墳,宮口13号墳及び宮口14号墳の現況は,いずれも立派な円墳として復元されている。

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南東の方から見た12号墳


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南の方から見た12号墳


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南の方から見た13号墳


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南の方から見た14号墳


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南東の方から見た14号墳
(左奥は15号墳)


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南の方から見た15号墳


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南東の方から見た15号墳


宮口16号墳,宮口18号墳及び宮口19号墳は,もともと墳丘が失われた古墳だったようなのだが,現況においても墳丘が復元されていないので,おおよその所在地を推知するしかない。宮口16号墳,宮口18号墳及び宮口19号墳は,宮口15号墳の南に縦列している。
宮口16号墳,宮口18号墳及び宮口19号墳の詳細は不詳だが,現況は,立派な円墳として復元されている。


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東の方から見た16号墳,18号墳,19号墳所在地付近
(左手奥は,20号墳と21号墳)


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南の方から見た16号墳,18号墳,19号墳所在地付近


宮口17号墳は,史跡公園駐車場の南(道路西側脇)にある。宮口17号墳の詳細は不詳だが,現況は,立派な円墳として復元されている。


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北西の方から見た17号墳


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南の方から見た17号墳
(奥は駐車場)


墳丘の墳土が失われた原因に関しては,耕作のための削平も考えられるけれども,その多くは,一般に,もともと群集墳の時代の墳丘の突き固めが甘く,脆い構造の墳丘だったことを念頭に置いた上で,豪雪地帯であることによる自然崩壊や河川氾濫による土砂流出や埋没を考えるべきではないかと思う。
このことは現代建築でも同じことであり,幕末~明治時代に構築され,職人の全ての技量を尽くして丁寧に突き固めて構築されたコンクリート製建築物(湾岸の砲台など)は現在でも頑丈なままだけれども,コンクリートミキサー車で運搬された水分の多いミルクコンクリートを機械装置で流し込み,硬化剤で速成に固められた建築物は,長くてもせいぜい100~150年くらいで自己崩壊し,ボロボロになって消え去る運命にあるのだろうと思う。

群集墳が多くつくられるようになった時代には,律令制度の基礎となる統一的な国家統治の仕組みが徐々に浸透した結果,村(かつての國)の支配者の権力が相対的に弱まり,村人総出で墳丘の突き固め作業及びその支援作業に従事させることができなくなっていたということを考えるべきだ。
それと同時に,村の長(かつての國神)の墳墓だけではなく,朝廷から命じられて赴任した上級官吏(及び,場合によっては,国営寺院の僧侶)の墓所も造営しなければならず,加えて,それぞれの有力者の子孫の墓所も造営しなければならなくなったと想像される。仮にそのような想像が正しいとすれば,大型墳丘墓の全盛期と比較すると,相対的に,個々の墳墓の工期が大幅に短くなってしまっていたということを考えに入れるべきだろうと思う。短い工期で仕事を仕上げるためには,墓所の構造を小型化・簡素化するか,手抜き工事をするか,盤石な構造の墳墓ではなくてもそれで我慢するか,そのいずれか一つまたは全部を選択するしかない。
これらのことは,油断すれば直ちに一族の滅亡を導きかねないような状況が続く戦国時代の城(館)と安定した平穏な時期が長く続いた後の江戸時代後期に新たにつくられた館を比較しても同じだ。
更に,現代の墓所の大半は,石室と(墳丘の代用物としての)墓石だけの最小限の要素で構成された構造物となっている。ビル(人工的に構築された岩盤)の中にあるロッカー式の墓苑は,トポロジー的な発想の下においては,現代における小型横穴墓の一種として理解することができる。一般に,人口が増え,大型の墓所を維持する十分な資料をもたない人々が墓所を持とうとすれば,当然のことながら,そのような帰結となる。古代における横穴墓の群を理解する際にも,このことを念頭に置くべきだと考える。墓所を営もうとする人々である限り,現代人の多くは,古墳時代の埋葬文化の基本部分をそのまま引き継いでいると考えられる。そのような意識を明確にもつだけで,物事が全く違って見えてくることだろう。例えば,国の政治にしても地方・地域の政治にしても,その根幹部分となる機能論的なメカニズムまたは動態は,全て古代のままだ。少しだけ異なるのは,古代においては,反乱者または反逆者とその一族は,武力によって粛清されてしまったかもしれないが,現代では,悪くても懲役刑程度であり,一族がまるごと全部抹殺されることはないという点くらいのものではないかと思う。よい時代に生まれたことに感謝すべきだろうと思う。

なお,西欧列強による植民地化が地球上で普通に行われており,油断すれば日本国も植民地化され,国民が奴隷化されてしまう危険性が極めて高かった幕末~明治時代において,統一的な権力の強化の必要性及び武器や戦略・戦術の近代化の必要性が強く認識されるようになり,国防の目的でつくられた西洋式の城郭に関しては,また,別の意味での揺り戻しのようなものがあったと理解することが可能と思われる。
いわば,古代における大規模前方後円墳や巨大円墳と同様,幕末期に建築された新来の西洋式城郭は,政治力学的な意味における明確なシンボルとしての意味も強くもっていたのだろう。

とは言っても,戊辰戦争における個々の戦闘の詳細を調べてみると,朝命により征夷大将軍を押し立て,有力諸侯が各部隊を率いて戦闘し,降伏した諸侯の兵士は戦陣の前部に配置して本体の弾除け(古代においては矢除け)とし,敵軍の陣地である城や館を攻略するという古代的な様相をそのまま示していると理解することが可能だ。降伏した諸侯は,一族の粛清を免れるとしても,裏切りの心がなく,忠誠を誓っていることの証として,どんなに犠牲を払ったとしても,先頭をきって必死になって戦わなければならない。
戊辰戦争において古代と異なっていたのは武器(道具)である銃と砲だけだったかもしれない。人間とその文化は,そう簡単に変えられるものではない。現代における文化的所産の大部分は,実は,古代のいずれかの文化的所在や伝統的様式などの焼き直しとなっている。真の意味でのクリエイティビティは,ほぼ存在しない。表層的なファッションの相違に目を奪われてはならない。

しかし,以上のような古代からの延長としての現代という側面に加えて,「現代のデジタル技術というものが人間の文化そのものを大きく変容させる力をもっていること」も忘れてはならない。デジタル技術は,単なる道具ではあるけれども,社会・文化の基礎的な構成要素(組成物)の一部であるからだ。
中国共産党政府は,古代的な支配のメカニズムを維持するためにデジタルネットワークの国家統制を強化している。
それが本当に可能なことであるかどうかは,未来の歴史家が考えるべきことではあるけれども,デジタル技術のもつ「道具」としての側面を見失うと,理解の根幹部分を見誤ることになる。
古代からの延長という諸要素と併存するデジタル技術が,基本的には道具であり,かつ,社会構造の一部(基本的構成要素の一部)でもあるという複合的な構造を地球全体レベルの複雑系の一部として全部理解できる者だけが正しい認識をもつことができる。
だから,先端技術と関連する職種に従事する者は,単純な物的道具がなぜなりたつのかについて興味をもつべきだし,それと同時に,古代から続く文化と歴史にも広範で深い素養をもつことが強く求められる。

一般に,文化遺産として維持・保存された有形・無形の文化財を知り,理解することは,「汝自身を知れ」を誠実に遂行するための精神的な営みの一部でもある。

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