福島県河沼郡会津坂下町:鎮守森古墳

過日,鎮守森古墳(福島県河沼郡会津坂下町青津)を見学した。
鎮守森古墳は,亀ヶ森古墳の南西に隣接している。
説明板によると,鎮守森古墳は,全長55mの前方後方墳であり,出土物等から4世紀に築造された古墳と推定されているようだ。
現時点の私見としては,4世紀の時点において,(継体天皇による王朝交替前の)朝廷の勢力が会津の地に及んでいたことを示す極めて貴重な文化財の1つだと考える。千枝万葉なので,根と幹が同一である限り,嫡系ではない傍系の子孫が皇位を継承しても万世一系として理解されることになる。
東側にある後方部の墳頂には八幡神社がある。参拝した。

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北の方から見た全景
(右が前方部・左が後方部)


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北西の方から見た全景
(右手前が前方部・左手奥が後方部)


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北の方から見た前方部


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東の方から見た後方部付近


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説明板


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説明板裏付近から見た後方部


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後方部南東角付近の周溝部分?


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八幡神社の鳥居


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八幡神社の階段


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八幡神社


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後方部の墳頂付近から見た前方部


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後方部の墳頂付近から見た亀ヶ森古墳


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南の方から見た全景
(左が前方部・右が後方部)


継体天皇の墓所に関し,宮内庁による治定地ではなく,今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)であるとする見解がほぼ支配的となっている。
継体天皇の別称と解されている「乎富等大公王」は,「巨漢の大王」を意味するのではなかろうか。

4世紀の中国は,統一王朝が存在せず,多数の国々が相争う状況となっていた。倭国は,(後難を避けるために)特定の国との間で特別の関係をもつことを避け,傍観者の立場にあったと思われる。ただし,滅びた国々の王侯貴族らは次々と倭国に亡命したと思われる。それらの者を通じて様々な文物や人材が倭国に流入され続けていたことは疑いようがない。
その後,北朝との関係を強める中で勢力を強め,隋帝国との交易を独占することによって巨額の富と政治力を得たのが蘇我氏(素氏または蘇氏)であり,白江(白村江)の戦を経た後に,唐帝国との交易を独占することによって巨額の富と政治力を得たのが藤原氏(藤氏)だと考えることは可能と思われる。「藤氏(とうし)」は,本来は,唐帝国との間の対外的直接交渉権を独占的にもつ家といういわば官職的な公的呼称であり,当然のことながら,古来の氏族としての別の名称または本貫地名ももっていたと考えられる。(偽家系図等によるものを除き)後代に養子等により藤氏の流れを汲む者となったとして扱われている家系を含め,そのような例として扱うことのできる史料が複数存在する。
そのようにして国際的な公益関係が大きく変化する間,国内経済上の独占権をもつことで優勢となっていた氏族の中には,隋帝国や唐帝国からの真新しい文物の流入によって次第に支配権を失ってしまった氏族も当然にあったと考えられる。
財の価値という点では,例えば,仏教関連の文物の価値は,通常の流通における米や塩よりもはるかに価値があると理解された時代があったということが優に想像される。それらのものがどのような交換比率で交換されていたかを詳細に示す資料が残されているかどうかについては浅学にして不詳だが,もしそのような資料の断片でも残されているとすれば,徹底的に調査するだけの価値がある。

これらのことは,江戸時代において国内流通の拠点として大いに栄えた港湾都市が,幕末~明治時代における国際貿易のための外洋船が停泊可能な施設と倉庫群及び居留地をもつ新興大規模港湾都市によって圧倒されてしまったという歴史的な流れにおいても(マクロ的には)同じだと言える。取り扱う流通物資の分量及び交換価値の圧倒的な相違がそのような結果をもたらしたというしかない。

国際的な公益相手国の変化と中国の文物の輸入独占という経済学的な観点から歴史学を見直す必要性がある。

ちなみに,巨視的にみれば,古代においてのみならず,源平合戦の時代,室町時代,戦国時代,幕末~明治維新前後,第二次世界大戦終結時にも古代におけるのと類似の大規模な国際公益上の重大変化があったと考えることができる。

さて,本質的にグローバルなものであり,物理的な港湾都市やハブ都市とは無関係な(純粋な意味での)デジタル財とデジタル経済が地球全体規模で支配的になってしまった場合,いったいどのようなことが起きるのだろうか?

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