浜松市:赤門上古墳(内野上3号墳)

過日,赤門上古墳(静岡県浜松市浜北区内野台)を見学した。赤門上古墳は,内野上3号墳とも呼ばれる。この古墳は,全長約56.3mの前方後円墳とされている。その前方部は,南西方向を向いており,巨視的には三方ヶ原台地の東縁に沿っているように見える。別の観点から考えてみると,赤門上古墳は,古いタイプの前方後円墳であり,その前方部は高度差のない平坦面になっているため,被葬者の一族が前方部の上に並んで南東の方向に顔を向けると,日の出を礼拝できることにもなる。そのことから,古墳造営当時においては,そのようにして日の出を礼拝したものかもしれないとも考えた。
赤門上古墳は,稲荷山古墳山の神古墳が並ぶ台地の縁の南端部分に位置する。赤門上古墳がある場所は,二本ヶ谷積石塚群に近い。赤門上古墳の墳丘は,発掘調査の後に整備・復元された部分があるはずであることを差し引いても,とても立派なもので,驚いた。この古墳のある場所からは,台地下の低地を遠くまで見通すことができる。古代において,その低地の大部分は海だったと推定される。

IMG_7486.JPG
古墳入口付近


IMG_7485.JPG
説明板


IMG_7487.JPG
説明板


IMG_7488.JPG
全景


IMG_7490.JPG
後円部側面


IMG_7492.JPG
墳頂付近


IMG_7497.JPG
後円部から見た前方部


IMG_7502.JPG
前方部から見た後円部


IMG_7489.JPG
前方部側面


発掘調査の結果,赤門上古墳からは華紋日月天王四神四獣鏡(三角縁神獣鏡)等の重要な文物が出土したとのことだ。大型の前方後円墳なので,かなり高位の被葬者であることが推定される。朝廷の命令によりこの地域に進出して屯田した軍司令官的な立場にある者またはその子孫の墓所かもしれない。
ただし,仮に鏡を保有できたのが高位の者だけだったと仮定した場合,二本ヶ谷積石塚群の積石墓からも鏡が出土していることを慎重に検討すべきことになるだろう。積石墓を造営する行為それ自体が,当時における社会内の地位を示すことには全くならず,単に,軍団毎の部族的出自の相違に起因する葬祭の伝統の相違を示すだけのものかもしれないからだ。
一般に,一口に「渡来人」と言っても,主としてユーラシア大陸中央部~北東部を故郷とする様々な部族を主体とする渡来人が多数やってきて,それぞれ朝廷の命に服する独立軍団を構成していたと考えることもできる。その場合,甲冑や武器の様式は,基本的には統一されていたかもしれないが,細部の伝統に系統別の分類が可能な程度の相違があり,葬祭儀礼または葬祭様式に関してはもっとそうだったと考えることは可能だろう。
なお,中国における魏の曹操、晋(西晋)の司馬懿,琅邪王氏,夏侯氏等の時代と同時代を含め,当時における最新の武装をもつ強力な軍団による侵攻と屯田の事績は,スサノオの伝説の中にも含まれていると考えられる。ただし,異なる時代の異なる渡来伝承が(古事記・日本書紀に記載されているものを含め)様々な伝説の中にまとめられてしまっている可能性が高いので,その理解・解釈においては慎重な検討を要する。
また,そのような軍事侵攻と屯田の事績は,ヤマトタケルの伝説の中にも紛れ込んでいる可能性がある。しかし,ヤマトタケルの伝説は,(武蔵國造の乱の時代を含め)スサノオの伝説よりも新しい時代のものであると一般に考えられている。
一般に,新領地・新領域を開拓・支配した者の子孫が土着化し,代を重ねる間に次第に独立性を強く認識するようになり,そのように行動することはしばしばあり,むしろ,人間の性向として自然的・必然的なものとも考えられる。それゆえ,朝廷による武力支配が一応完了した後の時代に,守護であるべき者の子孫による離散的な抗争または紛争が発生し,再び,国家全体の統一的支配という意味でのとりまとめのための軍事侵攻が行われたというようなことは,(精密な文書記録が現存しないだけのことで)実際には何度もあったのではないかと考えられる。

IMG_7495.JPG
古墳のある場所から見える景色


古墳のある場所を散策していたら,木々の幹にサルノコシカケの仲間と思われるキノコがたくさん生えているのを見つけた。

IMG_7498.JPG


IMG_7499.JPG

この記事へのコメント