足利市:機神山山頂古墳と行基平山頂古墳

機神山山頂古墳(栃木県足利市巴町)を見学してきた。古墳のある場所は山の上にあるのだが,古墳近くまでクルマで行くことができ,駐車場もあるので助かる。途中の「もみじ広場」という場所にも若干の駐車スペースがある。ただし,道幅が広くないので,対向車とすれ違う際には神経を使った。もみじ広場の脇に機神山古墳群14号墳という円墳がある。もみじ広場から更に上のところに比較的広い駐車場がある。
もみじ広場にクルマを停め,周辺を少し散策した後,もみじ広場から見える行基平山頂古墳の前にある登り口を登り,遊歩道を歩いて機神山山頂古墳のある山頂に向かった。

機神山古墳群
もみじ広場にある案内図


機神山古墳群
駐車場にある案内図


行基平山頂古墳
行基平山頂古墳


行基平山頂古墳
行基平山頂古墳の墳丘付近に密に散在するチャートのような礫


行基平山頂古墳
行基平山頂古墳の説明板


機神山山頂には古墳とレストランがある。古墳周辺を散策した後,そのレストランで昼食をとった。

機神山山頂古墳
機神山山頂古墳後円部


機神山山頂古墳
機神山山頂古墳くびれ部


機神山山頂古墳
機神山山頂古墳前方部


機神山山頂古墳
基壇の一部に露頭しているチャートと見られる岩石


機神山山頂古墳
説明板


東日本大震災の影響により,危険な状態となった部分があるとのことで,現在ではこの山にある古墳の墳丘上に登ることや石室にアクセスすることが禁止されている。
しかし,全体の印象や大きさ感を実際に得るためには,やはり現地に赴き,実物を観るのが一番だ。古墳のあるところからは,北関東の大部分を眺望することができる。ただし,古代においては,現在の姿とは異なり,関東平野の低地や谷地に泥が大量に沖積する前の(現在よりもずっと海抜の低い)状態を想定すべきで,内海や湖沼・河川あるいは泥湿地として見える部分のほうが相当に多かったと考えられる。

機神山山頂古墳


機神山山頂古墳


「機神」は,「はたのかみ」または「はたがみ」と読ませ,機織(はたおり)のことを意味すると理解されている。それゆえ,この古墳群の下のほうに織姫神社が存在する。

織姫神社
織姫神社


しかし,「はた」とは秦氏の「秦」を示すものと考えるのが妥当で,毛國を軍事的・政治的・経済的に支配した者が秦氏の子孫と推定される蘇我氏の権力の実質的部分を支えていたと考えるのが妥当であろう。実質的な武力のない権力や権威なるものは,単なるお飾りのようなものである。少数の兵による武力クーデタによっても簡単に覆えされ得る。単なる貴族というものは,物理的な武力の前には実に非力なものである。ただし,史書にいう蘇我氏と物部氏との抗争を考える上では,群馬県の富岡~多胡~藤岡市周辺で古代の紡錘や物部と記した遺物が多数発掘されているという事実,聖徳太子の「烏駒(くろこま)」の伝承,「壬生」との地名が甲斐及び下毛(下野)にも存在し,「壬生」との人名が『常陸國風土記』の中にも登場すること,『隋書』にある当時の様子の記述(特に,真実は「はりぼて」のような儀式用のものであり,隋からの使者を迎えるために急遽古代の甲斐國ないし毛國から集められ,古代の祭礼様式に従って装飾されたものに過ぎなかったかもしれないけれども,古代ユーラシア的な儀礼を行う大規模な騎馬軍団が存在したこと)などの事柄も無視できない重要性をもつものと思われる。
古代における新羅系仏教と百濟系仏教との争いなるものも,真実は,在来の政治思想と隋に親和的な政治思想との抗争の一種ではないか,実質を偽装するために仏教をめぐる紛争のように見せかけて史書が書かれたのではないかとの仮説をたて,そのようなものとして置き換えて考えてみるとわかりやすい。要するに,蘇我氏は,(特に経済取引や文物の移入という面において)隋に迎合する道を選んだのであり,その後,隋が比較的短期間に滅んで唐になってしまったことが倭国(日本国)の政治システムにも深刻な影響を与えることになったと考えられる。幕末における尊王攘夷派の帰趨や戊辰戦争の顛末などを考えてみると,ある種の類似点が存在する。鑑真による聖武天皇(上皇)と孝謙天皇に対する受戒なども,新たな政治的基本方針を示すシンボル的な出来事というような文脈でとらえてみる必要性がある。
古代の北関東において何らかの軍事的・政治的・経済的な抗争・対立があり,史書にいう蘇我入鹿の事件に政治力学上のミラーとして反映されているのではないかと思う。古代において北関東において動乱が存在していた可能性は,非常に近い地域を拠点とする新田氏と足利氏との間で政治的・軍事的な抗争が存在し,そのことが南北朝の争いとその結果に直接的な影響を与えていることからも十分に推測可能なレベルのことである。
古代の奈良という地域には権威は存在するが,経済学的にみた地域共同体としての奈良という地域それ自体に巨大な軍事基地や経済活動組織は存在しないし,兵站施設も存在しない。それらは全て他の地域から得られるものによって支えられていたと考えられる。それゆえそこに住んだ貴族達は,いわば寄生的な貴族なのであり,彼らを支える人々の談合と同調や基本的な経済システムが崩壊すれば,彼らの貴族としての地位は失われることになる。
それゆえ,文献資料はともかくとして,実体的な史料としては,奈良や京都以外の地から出土する遺物の相互関係を丁寧に調べることが重要と思われる。現代においては,まさにビッグデータを含め,データベース技術の応用可能分野の大きな分野の1つでもあると考えられる。その場合,中央政権の権力や権威というものを過大視すまたは神聖視ることは非常に危険なことであると考える。日本の社会の政治・経済の本質は,協調と妥協そして談合に支えられた律令的(または九品制的)階級システムである。ただし,実質的なトップの軍事的な地位に関して争いが生ずると,かなり大規模に内戦的な状況が出現する。鎌倉幕府,室町幕府,徳川幕府そして明治維新もまた,そのようなもののバリエーションとして存在していると考えるのが妥当だ。

それはさておき,機神山山頂とその周辺を散策している間に,シウリザクラが開花しているのを見つけた。シウリザクラは,日本国では北海道や本州中部以北の寒冷地に多く,大陸では中国東北部などに分布している。北海道にあるものは,古代における朝廷の軍事侵攻に伴い,人為的に播種された個体が野生化して増えたものかもしれない。

Prunus ssiori


  足利市:機神山山頂古墳
  http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/bunkazai/hatagamiyamasanchokofun.html

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