上毛野はにわの里公園:二子山古墳~薬師塚古墳

八幡塚古墳を見た後,二子山古墳~薬師塚古墳のあたりを順に見て回った。いずれも大きな古墳で,これだけ大きなものを造るためにどれくらいの人口が必要だろうかなどと考えたり,途中にある寺社に参拝したりしながら,ひととおり全部見ることができた。

この地域には,大山祇神を祀るところが少なくない。どの時代からそうなったのかはよくわからないが,群馬県太田市にある天神山古墳(東日本最大の古墳)との関係などを考えると,『古事記』の国生み神話にある「大島」と「大多麻流別」を今治市沖の大三島の大山祇神社(伊予国一宮)の祭神・大山祇神だと推定するという前提を採用すれば,うまく説明できそうな気がする。つまり,太田市周辺を支配した者こそは太田麻呂で,忌部氏と同様,西国から東国へと移動してきて広大な土地の支配を確立した者だったということになりそうだ。ここでもまた,大国主神と少彦名神との組み合わせと同じような関係をみてとることができる。

それはともかく,二子山古墳は,八幡塚古墳とほぼ同じ規模・構造をもった前方後円墳で,こちらも大きい。ただ,古墳表面の再現はなされていないようで,笹がびっしりと生えていた。

二子山古墳


二子山古墳(後丸部)への通路入口には岩で造った再現模型が置いてあったので,その前方部のほうから写真を撮ってみた。やはり階段状ピラミッドのように見える。

二子山古墳


その場所から,後円部に上ってみた。頂上には石棺があったとのことで,写真等で埋葬当時の状況が再現されていた。脇にはもう一体埋葬されていたらしい。榛名山の噴火の際,この地域を支配していた首長が亡くなり,その墳墓を構築する余裕もなく,やむなくご先祖様の古墳に埋葬したものではないかと想像したりしてみた。いずれにしても,このように墳墓の頂上付近に棺を安置し,石室をもたない構造の大型古墳は結構たくさんあり,近畿では天皇陵として比定されている古墳の中にもそのようなものがある。埋葬形式は,古代の氏族の近縁関係を推定する際の大きな手掛かりとなるので,墳丘の形式よりも重視すべきものではないかと思う。とりわけ,後世の掘削等によって墳丘部が大きく変形してしまっているものでは,墳丘部のどこに棺があったのかという点が最も重要なのではないかと思う。

二子山古墳


二子山古墳


二子山古墳


さて,最後に見た薬師塚古墳は,二子山古墳からはちょっと離れたところにあるのだが,全体としてみると,3つの大型古墳は同じ古墳区域内に全部まとまって所在している。

薬師塚古墳は,現在,西光寺というお寺の境内地の一部となっており,古墳の後円部頂上付近は掘削されて薬師堂が建立されている。神仏習合のあるところでは,少彦名神と薬師如来を同視しているのではないかと思うが,あえて分離する必要はなく,民衆はそのようにして古代からずっと崇敬してきたものだと考える。

お寺の本堂と薬師堂にお参りしてから古墳を拝見。薬師堂脇には、この古墳から出土した棺が保存・展示されていた。

薬師塚古墳


薬師塚古墳


このあたりを全部見終えた後,再び,前橋ICのほうへと向かった。途中で,有名な三寺Ⅰ遺跡に寄ってみた。遺跡と言っても新幹線の建設工事で消滅してしまい,遺跡があったことを示す表示板しか残っていない。豪族の屋敷といわれているが,実際には立派な濠で囲まれた堅固な城塞のようなもので,江戸時代まで続く日本の城郭建築の基本は全てこの時代に揃っていたということを理解することができる。

三寺Ⅰ遺跡


この築城技術は,忍の城へと引き継がれたということなのだろう。軍屯田の場合,農民は単なる農民ではなく,基本的には武人であり,武人が自ら農耕や牧畜をしながらその駐屯地を拡大し,一定範囲の支配圏を形成するというやり方なので,結局,日本の歴史は武家政治から始まったのだろうと思う。『読史余論』を読んでみると,昔の天皇は親征を行った云々から歴史を説き起こしている。これは,単なる観念論や空想等ではないように思う。

ちなみに,「三寺」という地名が気にかかる。保渡田の大型古墳が合計3基であることと妙に付合しているように感じられてならないのだ。


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